ペレットストーブカタログ
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United States of AmericaPennsylvaniaUnited States of AmericaPennsその後、年中行事のように増築が行われ、住宅と工場と繋がってしまった。工学や設計を正式に学んだことはないが、デインは父親の教えなのか、あるいは天分が遺伝子に組み込まれていたのか、生まれつき工学の基本がわかってしまうようだった。「工学的な才能は、農場にあった機械を扱っているうちに培われた。それとオートバイだ」とデインは言う。デインはずっと自分の会社の設計、工学責任者だった。今は、10人のR&Dスタッフと共に、コンセプトを開発し、それをノートパソコン上にスケッチし、さらに自分のパソコンに移す。それから、ソリッド・モデリングというソフトをつかって製図を完成させ、他のスタッフに見せる。デインは、会社のオーナーであるだけでなく、実際に製品開発と製造に関する現場責任者なのだ。志をかざしてデイン・ハーマンを語ることは、究極のストーブ屋を物語ることになるだろう。溶接の知識とガレージを持っていた若者がいた。暖房費の急騰につれて、鉄板製の素朴な薪ストーブがよく売れていることに気が付いたとき、若者の創造的精神と実業家的精神に火が付いた。当時、ハーマンは工業用の熱交換器を製造する「アメリカン・ヒート社」で溶接技術者として働いていた。そこで学んだ知識は、後にハース産業に入ったハーマンの大いなる力になった。ちなみに、ハーマンが製作したストーブ第一号機の材料はアメリカン・ヒート社の廃鉄だった。鍛冶職人だったデインの父に、鋳物の極意をたたき込まれた。鉄の鍛え方、手の技、自分の頭で考えることの大切さもたたき込まれた。「私は、父が51歳の時に生まれた子だった。父は、『いいかい、今やってみせるからよく見ておきなさい』と言いながら、いろいろな技術、技能を目の前で見せてくれた」。鍛冶職は鉄工でもあり、細工師でもある。父親から学んだことが、後にハーマンが製品を発想し、技術的な設計図を描き、それを実際に製造するようになってときに大いに役立った。最初に作った薪ストーブは自宅用で、1978年のことだった。しかし、すぐに友人や親戚から、自分たちにも作ってくれと頼まれるようになった。最初の顧客は、デニス・オハラ。現在ハーマンの工場長をしている。ガレージが工房、店舗になった。需要が増えてしまった結果、アメリカン・ヒート社を辞めなければならなくなった。こうして、従業員5人のハーマン・ストーブ・溶接会社が立ち上がった。1980年、住宅に近い農場の一角に工場の一部分を建てた。ハーマンの創業者 デイン・ハーマン4HARMAN HISTORYSince 1979

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